2018/04/16

磯釣り名手列伝15(最終回)清水令司

●近代釣法の黎明期を築いた男たち
◎清水令司●過去は明日のために
2004年/『ウキ釣り秘伝』vol.22に掲載

 関東にようやく近代ウキフカセの波が押し寄せた頃、伊豆諸島神津島の磯を舞台にひと際大きく異彩を放った釣り人がいる。清水令司。6m竿を操って大型尾長や青物と渡り合う鬼神のごとき姿は、伝説として語り継がれている。彼が放出したエネルギーとは何だったか。
 ひとりの釣り師が磯を去り、かつて自分が立っていた舞台を遠く静かに眺めている。過去を懐かしむためではなく、反省し、改良して、今と明日を迎え撃つために!

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「今にして思えば、上物釣りの一番いい時代にボクは釣りをしていたのかもしれないな」
 昭和50年代、伊豆諸島をはじめとする関東の磯では空前のヒラマサ・フィーバーに沸き、相前後するように西から大グレ・フィーバーの波が阿波釣法とともに伝播してきた。超軽量のカーボンロッドが誕生して、「魔性のエサ」と呼ばれたオキアミが全国に普及すると、ウキフカセ釣りは目覚しい進歩を開始する。
 1979(昭和54)年、がまかつ主催の「東西交流上物釣り対抗戦」というイベントが神津島で開催された。西軍5名のなかには中原孝、峯享男、濱口正春という名手の名前が並んでいたが、対する東軍5名はまだ無名の鵜澤政則や清水令司のほか、上物とイシダイの兼業釣り師(?)が参加した。イワシミンチとアミ漬けイワシの特エサ、アタミウキなどの巨大ウキ、太ハリスに大バリ仕掛けという東軍にあって、唯一、オキアミと円錐ウキを使って貴重な1勝を挙げたのが清水だった。
 清水令司は1954(昭和29)年の2月、東京都神津島村に生まれた。父は名ガイドとして知られた清水徳太郎。父が現在の前浜港を見下ろす高台に「見晴旅館」を開業したのは昭和32年、清水が3歳のときである。オモリ代わりに小石を結わえた仕掛けを竹竿の先に結び、港で魚を釣るのが子どもたちの遊びだった。当時は港にシマアジがウジャウジャ泳いでいたという。
 竹に針金でガイドを付け、ザルに道糸を入れてブッコミ釣りをしたのは小学高学年の頃。中学の頃には客が置いていった六角竿と、小遣いで買った横転式タイコリールが自慢の道具だったが、東京の高校へ入学するべく島を離れることになった。

●イシダイから上物へ
 円錐ウキから立ちウキへ

「島に戻ったのは19の春だったか夏だったか、それ以来、ボクの人生は釣り一筋です。釣りしかしなかった」
 20歳で結婚してすぐに一女をもうけたが、台風と低気圧が通過したとき以外は毎日、「家族をも省みずに」1年300日は磯に立っていたという。
 最初はイシダイ狙い。だが、恩馳群礁のカドで入れ食いを味わってからは青物に転向する。「イシダイは待ちの釣り。ボクの性分に合わなかったのかも」というのが転向理由。ターゲットはヒラマサやシマアジに変わる。メジナは「そんなの釣ってどうすんだ?」と笑われる雑魚扱いだった。清水がメジナ釣りをするようになったのは、あくまでも青物のオフシーズンに「腕がなまらないようにするため」だった。
 そんな時代に神津島で行われたのが「東西交流上物釣り対抗戦」である。「見晴館」が宿泊場所となったこともあり、峯は峯ウキを、中原は中原ウキを記念に置いていってくれた。「峯ウキはボクと相性が悪かったみたいで使いにくかった。そこで、中原さんに電話したか手紙を書いて、神津で使うウキを作って送ってもらい、何年かは中原ウキを愛用してました。でも、そのうち円錐ウキもボクの釣りと相性が悪いことに気づいた」

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 アタリを的確に捉えにくいというのが第一の理由だ。「メジナ(尾長)と青物の決定的な違いは歯があるかどうか。ハリを飲まれたら取り込める確率は6割以下になります。尾長は飲まれる前に合わせる必要がある。円錐ウキではタイミングが遅れてしまう。仕方なく自分でウキを作ることにしました」

●結果を理論立てること
 理論を実証すること

 木をナイフで削って1本だけ作った試作ウキを銭洲釣行で試したところ、具合がよかった。そこで、これを「銭洲一号」とネーミングし、本格的にウキ作りを開始するようになる。「1本のウキではオールラウンドに攻め切れない」と分って、形状や浮力にもバリエーションを持たせた。
 当時は魚も多く、どこで食わせればいいか、そのためにはどこへコマセを撒いて仕掛けをどう流すか、という計算ができた。合わせのタイミングを外さなければハリをかなりの確率で唇に掛けることができた。多幸湾の桟橋から、がま磯シルバー1号―5・6mとハリス2号で仕留めた68cm(4・5kg)の尾長が清水の記録である。
 昭和54年に宿の客を中心にした「見晴会」が発足する。船宿の客はグループで釣りをす傾向が強いが、旅館の客は一匹狼か2~3人で訪れるのんびり派が多い。混雑すると2番船や3番船に回されてしまうため、クラブを作ろうというのがキッカケだったらしい。当然、清水はそのクラブのリーダーとなった。
 清水が会員に求めたのは「結果を残すこと、結果を理論立てること、理論を実証すること」だったという。それができない釣り人を認めなかった。「自分と同じことを他人にも要求したのはボクが若かったせいかな」と清水は苦笑する。結果を残すには何が必要かを考えていくと、確率を求める釣りになる。
 釣りにはいろいろなアプローチ方法がある。コマセと仕掛けを合わせたほうがいいか外すほうがいいか。ラインは張るほうがいいか弛ませるほうがいいか。結果から確率を引き出す。それがすべて。「ボクの釣りは確率論の釣りだから」と清水は言い切る。

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●過去は、反省し
 改良するためにある

 ブレーキの壊れたダンプカーみたいなヒラマサとの体全体を使ったヤリトリに比べれば、「メジナ釣りは小手先の遊び」にすぎない。同じタックルでヤリトリしたらつまらない魚。そこには清水が上物釣りに求める「スリルとサスペンス」は生まれない。だからメジナには細ハリスと細竿で挑む。「相手に逃げるチャンスをあたえて、自分も取り込むチャンスをもらうのがゲーム」なのだ。
 細仕掛けで数多くの尾長を仕留め、剛竿と豪腕で数知れぬほどの青物を仕留めた清水が脳梗塞に倒れたのは数年前のこと。右半身の自由を奪われ、一時は箸を持つことさえできなかった。驚異的な回復で日常生活に不自由しなくなった今も、「周囲に迷惑をかけるから」磯に立つことはキッパリと諦めたという。
「釣りをするために生まれてきた」男が釣りをできなくなったのである。しかし、「ボクは過去にはあまり関心がない。関心があるのは今と明日。過去というのは反省と改良のためにあると思っているから、もちろん記憶はあるけど、昔を懐かしむという感情はありませんね」と自らの持論を語ってくれた。
「若いときに自分のやりたいことをやった人間は長生きできないですよ。しちゃいけない。ボクはやりたいと思ったことは全部やったから、この娑婆には何の未練もないですね」と笑う顔にはサバサバした表情さえ浮かんでいる。気がかりなのは、散歩相手にと貰い受けた甲斐犬の「クロ」との散歩がきつくなったこと、趣味で育てているエビネ欄にまだ満足できる花を咲かせたことがないこと……。
 車庫の奥に設けたウキ作りのスペースには、下塗りを終えたばかりの清水ウキが吊るされ、カラーリングまで完了したウキも何本か並んでいた。「三重県から20年以上もウチに通っている釣り人に頼まれた分です。こんな偏屈オヤジのどこが気に入ったんだかボクには分らないけど」

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 取材を終えて、車で天上山の採石場まで「クロ」の散歩に出掛けた。
 眼下には西陽にきらめく神津の海が広がり、渡船が長い裾を広げるように航跡を残しながら港へ戻ってくるところだった。
 淡い光の彼方に恩馳の島影がうっすらと見えた。
「神津は夢を持てる島。どこもそうなのかもしれないですが、深場あり、浅場あり、本流ありとあらゆる条件を備えている場所は少ないと思う。魚種も豊富で飽きませんよ。そんな島に生を受けて思う存分に釣りを楽しませてもらいました」という清水の言葉が潮風に揺れた。

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「23歳の春、ボクはある決心をしました。金持ちにはなれなくていい。釣りで歴史に名を残す男になってやるんだ、と。病気になって引退してからもこうして取材にきてくれるということは、ボクもそんな男たちのひとりになれたのかな。23歳で抱いた夢は達成できたのかもしれませんね」

 過去は今と明日のためにあるのだ。
 反省し、改良するために存在するのである。
 それはウキフカセ釣りに必要不可欠な人生訓と言ってよいだろう。

※画像はデジカメで撮った予備画像から。

2016/12/29

『酔いどれ船』に寄せて…

この詩は『酩酊船』とも『酔っ払った船』とも訳されますがやはり『酔いどれ船』という言葉がしっくりくる。
ランボォの詩にはいろいろな訳がある。堀口大学、西条八十、中原中也、小林秀雄、清岡卓行、篠沢秀夫、鈴村和成、金子光晴、寺田透、平井啓之、鈴木創士、宇佐美 斉 …ほかにもあるが、個人的には昔から粟津則雄訳が気に入っている。

熱を帯びながらも詠嘆的ではなく、説明的すぎもせず適度にざらついていて、散文的な翻訳でもなく妙に雅文調でもなく、言葉が独特な質感を持ったまま耳に入ってくるように感じる。
最初にまとめて読んだランボォが粟津則雄訳だったことも大きく影響しているに違いない。
外国文学は最初に読んだ翻訳文がイメージとして定着してしまうことが多いからだ。

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おれが非情の大河をくだっていたとき、
おれを導く船曳きの綱の覚えはもうなかった。
かしましい赤肌の蛮人どもが船曳きを的にと捕らえ、
色とりどりの棒杭に身ぐるみはがして釘付けていた。

おれはフラマンの麦をのせ、またイギリスの綿をのせ、
乗組の奴らのことはもうまったく心になかった。
船曳きとのあのさわぎがおさまると、行先も
思いのままに、大河はおれを流れくだらせた。

  A・ランボォ『酔いどれ船』(粟津則雄訳)より/以下同じ


1871年、ランボォがまだ16歳か17歳の時に書いた作品だが、このとき、ランボォは一度も海を見たことがなかったという。
「非情の」と訳される部分は「無感覚な」「手応えのない」という意味でもある。

詩人マラルメはランボォを「おそるべき通行人」と『呼び、作家モーリアックは「この世のものにあらざりしランボォ」と驚嘆し、三島由紀夫は「人の世にあらはれた最も純粋な<魂>そのもの」と讃えた。
哲学者ジル・ドゥルーズはその著書のなかでカントの可能性の中心を担う「調和し得ない緒力の束」を体現するものとして、ランボーを挙げている。

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おれは知っている、稲妻に裂け散る空を、
竜巻を、暗流を、潮流を。おれは夕暮れを知っている、
舞いあがる鳩の群さながらに高らかに明け染める曙を、
人が見たと思ったものをおれは時折この眼で見た!

おれは夢見た、目くるめく雪の吹き舞う緑の夜、
ゆるやかに海の眼へのぼる口づけ、
めぐり流れる未聞の精気を、
歌うたう燐光が、黄に青に目覚めるのを!


有名な「見者の手紙」には「ぼくはひとりの他者なのです」と書かれている。
『酔いどれ船』に頻出する「おれは視た」「おれは夢見た」「おれは知っている」の「おれ」はしたがってランボォ自身ではなく「他者」だったのかもしれない。

「詩人は長期間の、破壊的で計算された錯乱によって見者(ヴォワイヤン)になる」(ランボォの手紙「見者の手紙」より)
錯乱と破壊を受け入れてそれに耐えながら「他者=見者」の眼で幻視する。それこそがランボォの詩作行為だった。
酒も阿片も、ヴェルレーヌとの同性愛も、そのための手段だったとも言えるだろう。

この詩が書かれた年に起こった世界初の労働者革命(パリ・コミューン)もシステムや因習や価値観の破壊という衝動に影響をあたえたのだと思う。
ランボォ自身、何度目かの家出をして動乱のパリを体験している。希望と熱狂と暴力と落胆を!

「時代は感受性に運命をもたらす」(堀川正美)
ランボォは時代の一撃を真っ向から受け止めたのだろう。
そんなことを何年も続けられるはずがない。
詩作期間の極端な短さはそのせいなのかもしれない。

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子供らにおれは見せてやりたかった、青い波間の
かじきの群、金色の魚の群。歌うたう魚の群。
――水泡は花と咲き開いて、流れ流れるおれをゆすり、
えも言われぬ風が吹いて時おりおれは翼をえた。

おれは見た、きらめく星の群島を、
乱れ騒ぐその空を海ゆく者に委ねた島を。
――この底知れぬ夜のなかに、おまえは眠り、潜むのか?
数知れぬ黄金の鳥たちよ、おお、未来の生気よ?

考えてみれば10代後半の若造が書いた詩を、今も世界中の研究者が老眼と闘いながら?読み解こうと格闘しているというのは、滑稽でもあり凄いことでもある。

ランボォ自身は早々と詩を棄てて放浪の旅を続けアフリカの沙漠で商人となり、ついには病気でマルセイユに送還され右脚を切断され、1891年11月10日、37歳で亡くなっているが、大半の詩を書いた時期は21歳までの約5年間にすぎないのだ。

その詩はほとんど発表されることなく『地獄の一季節』だけを自費出版したが、それも刷り上がるとすぐに暖炉に放り込んで放浪の旅に出る。
放浪中に彼の作品が注目されフランス中を大騒ぎさせるが、ランボォは見向きもしない。勝手に盛り上がってくれ…とでも言わんばかりに。

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だがほんとに、あまりにもおれは泣いた!
曙は胸をえぐる。月はすべてむごく、陽はすべてにがい。
つらい愛が、酔い痺れる思いでおれを満した。
おお竜骨よ砕け散れ! 海にとけてしまいたいんだ!

ヨーロッパの水に思いが残るとすれば、
黒々と冷やかな森の池、かぐわしいたそがれどきに、
少年は悲しみに心溢れてうづくまり、池水に
五月の蝶にさながらのかぼそい舟を放すのだ。


『酔いどれ船』は少年ランボォが「かぐわしいたそがれどきに」池に浮かべて流した笹舟だったのかもしれない。
「悲しみに心溢れてうづくま」った少年の思いは「かぼそい舟」とともに池から川へ「非情の大河」を流れくだり、荒れ狂いときにえも言われぬ音や色に染め上げられる想像の海をさすらい続けたのかもしれない。

4行ずつに仕切られたこの100行に及ぶ詩は多くの詩人や作家や画家や音楽家に影響をあたえた。
ランボォがヴェルレーヌの紹介でこの詩を朗読したとき、高踏派詩人のテオドール・バンヴィルはよせばいいのに「たいへんよく書けた詩だけれどちょっとわかりづらいね、最初に、もしぼくが一艘の船だったら、という1行を付け足したらどうかね」などというアドバイスをしたという。
唖然とするランボォが目に浮かぶ。それで悪態をついてその場から立ち去ったそうだ。両者のいる次元がすでに違っていたのだから仕方がない。

いつの時代もどこの国にも破壊的想像力を理解すらできない詩人、文才ばかりか冒険心のカケラもない作家というのがいるらしい。

2015/10/27

ミチロウ釣り旅日誌から-3

神の魚カムイチェプを釣りに

 サケ。漢字では鮭。シロザケとも。英語でドッグ・サーモンと呼ばれ、アイヌ語ではカムイチェプ。アイヌ語のカムイは神のこと、チェプは魚、つまりサケはアイヌ語で「神の魚」という意味なのだ。北海道では秋に獲れるサケをアキアジ(秋味)と呼ぶ。そう言えば、ビールの銘柄にも秋季限定〈秋味〉というのがあったっけ。
 サケの一生はドラマチックだ。秋から初冬にかけて生まれたサケの仔魚は雪のなかで冬を越して稚魚にまで育ち、底生性の昆虫類などを食べながら下流域へと下り、河川と海の水温がほぼ同じになる頃、ちょうど山々に桜の花が咲く頃に遙か遠いベーリング海へと旅立つ。
 オキアミやイカなどを食べながら大きく育ったサケは、3~4年で自分が生まれ育った母川へ帰ってくる。もちろん、個体差があって2年で回帰する気の早いサケもいれば、5年も経ってから川に戻るサケもいるそうだ。春から夏に沿岸で獲れるサケをトキシラズ(時不知)と呼ぶが、季節外れのサケは卵や白子に栄養分を取られないため脂が乗って美味とされる。秋に回遊するまだ若いサケをケイジ(鮭児)と呼ぶ。こちらはロシア生まれの若いサケが日本生まれの群れに交じって回遊してきたものとされており、脂が乗って美味しく滅多に獲れない「幻のサケ」と言われている。
 サケの母川回帰能力は謎に包まれているが、長距離の方向探知は太陽コンパスや地磁気コンパスを利用し、沿岸近くでは特殊な嗅覚によって、自分の生まれた川の匂いをかぎ分けるのだろうとされている。
 人間の婚姻は第二の人生のスタートを意味し、たくさんの祝福を受けるが、母川へ戻ったサケたちの婚姻はそのまま〈死〉への儀式ともなる。サケの婚姻色はけっして美しいものではない。まだらに赤みを帯びて全体にくすんだ体色は地衣類が付着したブナの木肌に似ていることからブナ、またはブナケと呼ばれる。川に入るまえのまだ銀色に輝く体色の個体はギンケ。産卵のために川を遡上するサケの姿にバージンロードを歩くような華やかさはない。
 オスは吻部がのびて鉤状に曲がり、ちょうど魔法使いのおばあさんの鉤鼻みたいに見える。サケの鼻曲がりなどと呼ぶ。川へ入ったサケはオスもメスもエサを追わず、ひたすら婚姻の儀式へ向けて上流へと泳ぎ続ける。川床の石に体を擦りながら、身をボロボロにして遡上する。遡上途中でカップリングすると、メスは浅い礫底を見つけて尾ビレで礫をはじき飛ばして産卵床を作り、オスはほかのオスを追い散らす。メスが産卵するとオスは素早く精子を放出し、メスはふたたび尾ビレで礫をはじき飛ばして受精した卵を埋め、これを2~3回くり返してすべての卵を産み終える。
 体力を使い果たしたサケはヒレがボロボロに擦り切れ、体も傷つき、見るも無惨な姿となる。これを北海道の人たちはホッチャレと呼ぶ。やせ衰えて川に流されながらただ死を待つだけのホッチャレは、カラスにさえ見向きもされない存在だ。そんなホッチャレが川床に沈み、腐敗してたくさんのミネラルを川水と森に提供し、孵化した稚魚たちが下る母川を豊かに保つ。
Trip111

 昨年9月、私は北海道の仲間たちに誘われて襟裳岬へサケ釣りに訪れた。そこで、壮絶な婚姻と死の儀式へ向かう寸前のサケを釣りながら、釣りというのは(どんなにきれいな言葉を並べたところで)結局はひとつの生命がもうひとつの生命を奪う行為にほかならないことを痛感した。
 釣った魚を食べることが残酷なのではない。ハリに掛け、その断末魔の抵抗を「すげぇ引きだ」と味わうことが残酷だというのでもない。すべて生あるものが生まれて死んでゆく、その事実そのものが悲劇的であり残酷なのだと思う。つまるところ「生は死へと向かう帰巣本能でしかない」と言うこともできるだろう。
 そんなことを感じながらサケとやり取りをする。竿が曲がり、ウキが海面を走り、張り詰めたラインの先にもうひとつの生命がいる。それだけのことだ。そこにはどんな理屈も感傷も賞賛も入り込む余地などない。あと数十秒でこの世から消えてしまう命、あと数十年(いや明日かもしれない)でこの世から消える命、このふたつの生命にどれほどの違いがあるだろうか。
 リリース云々の問題ではない。そんな小賢しい傲慢には興味がない。リリースすれば魚が喜ぶわけでも、自然が感謝してくれるわけでもない。散々弄んだ挙げ句、いきなり優しい顔つきになってハリを外す。別に褒められる行為でもなければ自慢できる行為でもない。可哀想だというのならハリに掛けることを止めるしかない。そんなことで釣りが高尚なスポーツになるとは思わない。
 私も自分が釣った魚をリリースすることはあるが、それは食べきれないぶんを逃がすというだけにすぎない。食べて美味しくない魚、食べるには大きすぎる魚や小さすぎる魚を逃がす、数少ない希少な魚を逃がすというだけのこと。リリースすることによって得られる自己満足はないし、あるとすれば、生態系の頂点に君臨する種としての傲慢、他の生命の生死を支配する神的行為の疑似体験でしかないと思う。

 北海道のサケ釣りは、そんな釣りの原点に立ち返らせてくれる貴重な体験だった。今年もそんな体験を求めて北海道へ出掛けた。夕方、新千歳空港に到着し、仲間の車で苫小牧から海岸伝いに襟裳岬を目指す。鵡川、沙流川、日高、新冠、静内、浦河、鵜苫、様似と走り抜ける。見えない水平線にイカ釣り船の漁り火が輝いている。深夜1時頃に襟裳岬手前にある歌別漁港に着いた。夕方から夜釣りをしているはずの仲間を探して再会の握手をしながら「どうですか?」と訊ねると「さっき大きいのを釣りましたよ」とF町さん。
ブッコミで釣ったというサケは大きく鼻の曲がった90cm超えの特大サイズ。威風堂々たる巨体である。そんなヤツが港の奥まった場所で上がったのだという。少し仮眠してから釣りをするつもりだったが、こんなのを見せられて眠れるはずがない。
 遠投用の大型中通し円錐ウキに化学発光体を装着し、その下にはいつものようにタコベイト付きの段差フック仕掛け。これにサンマの切り身を付けて放り込む。コマセで魚を寄せる釣りではない。相手まかせ。魚頼み。サケ次第。いつもと勝手が違うせいかヒマを持て余している左手がかえってだるい。結局、夜は何やら頼りない引きで釣れたキュウリウオのみ。エソとシロギスを足して3で割ったような細長い魚体で、たしかにキュウリのような匂いがした。一応はサケ目の魚だが大きくて30cmまで。干すとシシャモに似ているため、都会の食品売り場では今もシシャモとして出回ることもあるとか。昔は病人食に使われたらしい。
 夜が明けると同時に港内が賑やかになった。あちらこちらで薄明を切り裂いて水飛沫がきらめく。私のウキも斜めに消えていった。軽く合わせるとズシンという重みとともに巨体が海面を割って躍り上がり、ウキがすっ飛んできた。「サケは口周りが硬いからガツンガツンと2、3回合わせないとダメです」とアドバイスされる。いつもは教える立場なのだが、サケ釣りに関してはこちらがド素人である。
 素直にアドバイスを聞いて2度合わせ、3度合わせを入れたにもかかわらず、4連続ハリ外れ。U野さんからもらった巨大なハリに交換しているあいだにも、U野さん、I口くん、N村さん、F町さんの竿がしなる。ハリ外れも何度か。対岸の護岸ではずらりと並んだ投げ竿がひっきりなしに曲がっている。そのすぐ近くでサケのライズ。なんとも凄まじい光景である。
 朝の喧噪がすぎると、港は昆布採りに出掛ける漁船の往来が激しくなり、釣り人も少なくなった。遠くの河口周辺にはサケがバシャバシャと跳ねているが、その周りは禁漁区域だ。そんな光景に見とれているとK原さんが手早くバーベキューの準備をはじめた。さすがは北海道の釣り人だけあって手慣れている。私もいただいたサッポロビールを片手に宴会に加わる。肉とイカを食べ、ウドンを啜り、またビールを飲んで飯盒で炊いたご飯の上に肉を載せて食べ、そのへんにゴロンと横になる。遠くでサケが跳ね、頭上を秋風が吹き、ときおり港のあちらこちらで歓声があがる。

 夕暮れとともに港の出口周辺が騒がしくなった。対岸で黙々とルアーを投げていた女の子にサケがヒットし、周囲のオジサンたちの助けを借りて無事取り込む。女の子は躍り上がらんばかり。きっと結婚しても、オバサンになっても、彼女の記憶のなかにあのサケは生き続けるに違いない。おばあさんになって孫に語り聞かせるかもしれない。「わたしがまだ若かった頃にね、そう、今のおまえくらいの歳にね、歌別の港でそれはそれは大きなサケを釣ったんだよ。それはそれは大きなサケでね…」
 そうこうするうちにI口くんが1本、U野さんも1本。いきなり目の前にサケが巨体を踊らせる。すかさずウキルアー仕掛けを投げたU野さんが1本追加。F町さんにもヒット。大遠投していたK原さんの竿が曲がり、そのサケを取り込んでいるあいだに今度は私のウキが斜めに消えた。サケ特有のわがままな引きをどうにかなだめ、U野さんが差し出す玉網のなかへ強引に引き入れるとパッと銀色の花びらが散った。ウロコが剥がれたのである。ふつうのサケでは起こらないことだ。
「これ、ケイジですよ」
「ケイジ?」
「数百本に1本しか釣れない幻のサケです。私も釣ったことがありませんが、若いせいかウロコがすぐに剥がれ落ちるみたいです」
 自宅に戻ってから調べてみたら、やはりそれはケイジ(鮭児)だった。
 夕闇のなかで竿を仕舞い、船揚場で釣ったサケを解体し、卵と白子とエラと血合いを切り分ける。サケには捨てるところがない。
Trip112

 昨年は港内の番屋に素泊まりしたのだが、今回は昆布漁と重なったため襟裳町の旅館に泊まり、夜は飲み屋へ出撃する。サンマの刺身、イカゴロ(ワタ)刺し、ハタハタ、ハッカクなどを食べてビールとウィスキーと焼酎とワインと日本酒を飲んだ。たまたま隣の席にいたFM帯広のアナウンサーとエッチ方面の作家である綺羅光さんとジャズドラマー(奇妙な取り合わせである)とも意気投合して盛り上がった。遠くから祭太鼓が聞こえてきた。
 翌日は昼まで釣りをして帰路に着く。途中、小さな川でサケの群泳を見た。1mを超えるモンスターがルアーを3本も口端にぶら下げて悠然と泳いでいた。まさに「北国の帝王」と呼ぶに相応しい風格。その下にはすでに産卵の儀式を終えた眼のないサケの死骸がいくつも沈み、川面をトンボが低く飛び交っていた。岸辺には秋櫻が揺れ、ハマナスが真っ赤な実を付けていた。
 たくさんの生と死が入り乱れ、川は静かに海へ注いでいた。見上げると雲が音もなく流れていた。地球は静かに回転をくり返し、我らは時の水面に小さな波紋を広げる。波紋は流れに乗って解け、秋櫻の花びらといっしょに河口へと流れていった。

※ここに再録したのは、1995年の夏から釣り総合誌『つりマガジン』(桃園書房)に連載した釣行記(遠くまで近くまで)の一部を修正加筆したものである。近いうちに釣行記全体をまとめて電子書籍にしようと思っているが、いつになることやら。ちなみに挿絵は名取画伯の手によるもの。ただし、スキャンした画像は劣化と裏写りがあるため若干の補正と修正を加えた。

2015/09/23

湘南点描-14/土地の精霊に会釈して…

土地の精霊に会釈して

 海に近く、都心にも近い。適当に観光地で、適度に都会風。新宿と東京へは電車一本で出ることができる。しかも一時間足らず。
「住むには最高だよね」
 藤沢という街の印象を友人たちに訊くと、たいていそんな答えが返ってくる。
 最近はちょっと都会風になりすぎた気もするが、私がこの街に引っ越してきたときも同じような印象を受けた。
 自転車でちょっと走れば海。私ほど、そんなロケーションを堪能してきた人間はいないのではないだろうか。
 なにしろ、そのために東京への通勤生活を早々に止めてしまったくらいである。

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 近くの漁港へ週末ごとに出掛け、ウミタナゴやハゼやイシモチやシロギスや小メジナと遊んでいた時代はあっというまに終わり、いっちょまえのフル装備で磯に立ち、三浦半島や伊豆半島まで足を延ばし、さらに東北や北海道や四国や九州へも釣りに出掛けるようになって、気がつけばフリーランスライターのほかに、フィッシングライターという奇妙な肩書きを持つようになった。
 勤めを辞めたのは、いろいろな理由はあったにしろ、最終的には「釣り場が混雑しない平日に釣りをしたい」というじつにわがままな理由からだった。
 おそらく、藤沢という街に引っ越していなければ釣りを趣味にすることもなく、趣味のために務めを辞めることもなかっただろう。土地が人の運命を左右することは珍しくないのである。

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 どんな土地にも精霊が住んでいて、土地の魔力を演出している。
 藤沢という街の精霊はどこに住んでいるのだろう。
 大昔、鵠(くぐひ=霊鳥)と呼ばれた白鳥が、人間の魂を乗せて霊界へ旅立つまえに翼を休めたという鵠沼(今は蓮沼だけになった沼地)だろうか?
 それとも、弁天様を祀る緑の江の島だろうか?
 鵠沼の名残は小さな蓮沼に閉じ込められて霊力を失い、江の島はあまりに観光化が進んでしまったような気がする。
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 にもかかわらず、私は蓮沼と江の島に土地のパワーを感じる。
 西の空が紫がかった夏の夕暮れ、ふらりと自転車を走らせて蓮沼を訪れたり、もう少し頑張ってペダルを漕ぎ、江の島が見える片瀬川の河口まで出掛けたりする。
 べつにこれといった目的があるわけではない。
 土地の精霊に会釈して
 とりあえず、この10数年のお礼でも伝えておこうか…という程度である。

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※私が神奈川県藤沢市に引っ越してきた頃、この街には『藤沢風物』というタウン誌があり、フリーランスライターになってろくに仕事もなかった私はここでいろいろな仕事をお手伝いしながら何本かの連載エッセイを書かせていただいた。それは貴重な文章修行になったが、無名の若造にそんなページをあたえてもらったことには今も感謝している。
「湘南点描」はこのタウン誌がなくなるまで続けた最後の連載で、湘南の写真と短い文章で綴った思い入れのある連載だった。当時使った画像が行方不明なので古い画像や最近の画像を添えて再録。文章についても若干の手直しをして「無名の若造」をサポートした。
※実際はこのあとにもう一本連載を書いた号が最終刊になったのだが、自分としては余り出来のよくない文章だったので、この回を最終回と考えている。「土地の精霊に会釈して…」というタイトルもなぜか最終回の響きである。『藤沢風物』が休刊することをひそかに予感していたのかもしれない。


湘南点描-13/ 太陽が支配する空間

太陽が支配する空間

 街のちいさな公園が好きだ。
 ブランコ、滑り台、ジャングルジム、シーソーくらいしかないような、滅多に人が訪れないちいさな公園。
 こぢんまりとして、見すごされやすく、どこにでもあるような、どこにもないようなささやかな遊びのための空間。遊びのような空間。
 そんなちいさな公園は季節によってさまざまな表情を見せる。

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 たとえば、真冬の早朝。
 葉をちぎり落とした枝々の向こうから、輪郭を震わせて透明な太陽がのぼる頃、地面の下には霜柱が壮麗な氷の宮殿を築いていたりする。その凛とした公園の静寂が好きだ。
 あるいは、春の夕暮れ。
 樹木の影がくっきりと長く伸び、街灯がともる頃、さまざまな匂いや色が埃っぽい風に乗って吹きすぎる。そんな艶めかしく、どこか寂しげな公園の横顔も好きだ。

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 けれど、私が一番好きなのは真夏の公園だ。
 真夏の昼下がりのうだるような熱気のなかにたたずむ公園だ。
 樹木の影はジュッと音を立てて縮こまり、ギラギラした太陽が砂利を一粒ずつ光で釘付けにする。
 ブランコの鎖、滑り台の手すりは熱を帯び、触れようとする手を拒絶する。
 かすかな湿り気は木陰に閉じこもり、ぴくりともせず、青ざめてゆく。
 
 日向にあるものはすべて素材に還元され、抽象的な形に解体され、色彩を奪われ、ただそこにあるだけの存在となる。
 木と鋼に抽象されたベンチには太陽がドッカと腰を下ろし、人が割り込むスペースなどどこにもない。
 その空間を支配しているのは太陽であり、入道雲に縁取られた青空であり、気が遠くなる暑さであり、陽炎であり、蝉たちの鳴き声である。

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 背中の汗が乾くまで、私は木陰に座り、ぴくりともせず、そんな空間を見ている。
 ものたちが太陽の下で感情や理性や理想や目的や時間や日付を失って、いきいきと光り輝いている空間を眺めている。
 すべての感情や理性や理想や目的や時間や日付から解放され、ただ、なにもしない至福を全身に感じながら。


※私が神奈川県藤沢市に引っ越してきた頃、この街には『藤沢風物』というタウン誌があり、フリーランスライターになってろくに仕事もなかった私はここでいろいろな仕事をお手伝いしながら何本かの連載エッセイを書かせていただいた。それは貴重な文章修行になったが、無名の若造にそんなページをあたえてもらったことには今も感謝している。
「湘南点描」はこのタウン誌がなくなるまで続けた最後の連載で、湘南の写真と短い文章で綴った思い入れのある連載だった。当時使った画像が行方不明なので古い画像や最近の画像を添えて再録。文章についても若干の手直しをして「無名の若造」をサポートした。

2015/09/17

ミチロウ釣り旅日誌から-2

アロエの花と八丈島と

 海の旅が好きだ。
 船に乗って底知れぬ海の上を漂い、陸地から完全に切り離された時間をすごす。
 波のリズムが身体に浸透してくる。闇がうねるたび、身体の奥に眠っていた記憶の地層が揺れる。
 消灯時間をすぎたあとの船室にあるのは、だれかの寝息、どこからか聞こえてくるヒソヒソ声、そして闇のなかに揺れる自分自身の遠く近い記憶だけだ。
 竹芝桟橋を出航した東海汽船は、銅鑼と「蛍の光」と街を縁取るネオンサインに見送られて東京湾の出口を目指す。風はなく、波もなく、満月が遠ざかる街の上に低くのぼっていた。船室で飲んだウィスキーの水割りとビールのせいか、遠い光の輪郭がブレて滲んだように見える。
 少し寒い。1月の深夜、しかも酔い覚めで船のデッキにいるのだから寒くてあたりまえだろう。まるい月と滲む街の灯をしばらく眺めてから船室に戻る。同室の人たちの夢に足音を響かせないように、そーっとウィンドブレーカーを脱いで毛布にもぐり込む。東京湾を出た船はゆったりとした太平洋のウネリの上を航行している。背中に気が遠くなるような海の深さを感じながら、私は闇に漂う記憶のカケラを追った。
 こういうひとりの時間も嫌いじゃない。
 だから、八丈島へは必ず船で出掛けることにしている。飛行機だと距離感がつかめず、遠い島へ行くのだという実感が湧いてこない。距離は憧れと期待と幻想を生む。海は古色蒼然とした冒険とロマンの香りで旅を脚色してくれる。
 その代わり、帰りは飛行機でなるべく早く本土へ戻る。現実へ戻る。夢が覚めないうちに。冒険とロマンの香りが重油とアルコールと煙草の煙に化けないうちに…。
 早朝4時、三宅島で釣り人がたくさん下船し、船が三池港を離れると揺れが一段と大きくなったように感じる。ゆるやかに上下する闇のなかでもうひと寝入り。目が覚める頃には明るい光が丸い船窓から射し込んでいる。
 朝は食堂でパンケーキを食べてコーヒーを飲み、いっしょに乗船した釣り仲間のUさんと八丈島の話をする。御蔵島沖を通過すると船は大きく上下左右に揺れた。黒瀬川と呼ばれる黒潮を突っ切ったのだろう。揺れが収まってからまた毛布にもぐり込んで少しだけウトウトしているうちに、船は八丈島の底土港桟橋へ着岸する。ウネリはあるが風はそれほどでもない。2便の飛行機で北海道から仲間がやってくる。午後からのんびり地磯へ出掛けるには問題なさそうだ。

 いつもお世話になるペンション・ビーチタイムでマスター特製のあしたば蕎麦と熱いコーヒーをいただき、それから地磯釣行に備えて背負子にバッカンや小型の磯バッグを詰め込む。真冬というのにちょっと動いただけで汗ばむ。東京から南へ290kmの太平洋上にあるこの島は、やはり南の島なのだ。
 北海道からやってくる仲間を空港まで迎えに行き、さっそく出発の準備。目指すは島の南端にある「中のママ」だ。「ほかの磯は去年の台風でだいぶ道順が変わっちまったよ」とマスターで釣友でもある百川武さんが教えてくれた。私の好きな「大越」も「船付鼻」も足場にしていた巨大な岩が波でどこかへ移動したらしい。「石積」の石段も流失、八丈小島の「宇津木」にあった船揚場も崩され、「宇津木」から「和田」へ直に行けなくなったとか。「オレもさ、北海道の留萌の出で東北のクロダイ釣りもやったけど、島に来て驚いたのは波の厚みと強さが違うってことだな」と百さんは北海道からやってきた釣り人に注意を促す。

「ナズマド入口」と書かれた看板のある細い道を入り、路肩に車を駐め、ここからは背負子を背負って原生林のなかの「釣り師道」を歩く。やがていきなり視界が開けて青い海の向こうに八丈小島が見える。大きな岩から岩へ、片手で岩をつかみながら慎重に伝い降りて行く。だから八丈島の地磯釣行には背負子が欠かせない。磯場へ着くと顔見知りのT原夫妻が新年の挨拶で出迎えてくれた。
「釣れてます?」
「パッとしませんね」
というもののタイドプールには40cmオーバーの尾長が3匹泳いでいた。
 尾長釣り初心者の北海道グループにタックルと仕掛けと釣り方を簡単に説明し、メジナ釣り自体が初めてでわからないというFさんには仕掛けを作り、狙うポイントを指示した。すぐに百川さんが40cmクラスをヒットさせたが、その後は音沙汰がなくなり、みんなの気分がだれてきた頃にFさんの竿が大きく曲がった。懸命に竿を立てて踏ん張っている。「ガンバレ!」と声を掛けたが声など聞こえていなかったと思う。あと少し。ここから2回、3回としぶとい抵抗をみせるのが尾長の特徴。油断は禁物。海面近くに大きな魚体が見えた。U野さんが玉網を構えた瞬間、バキッと音がした。Fさんの竿が3番から折れたのである。折れた竿が道糸を伝って海中へ。それでもFさんが懸命にリールのハンドルを巻き続けたお陰で、魚はさほどの反撃もみせずにそのままU野さんが差し出す玉網に収まってしまった。何が起こったのか分からなかったのは釣り人だけではなかったようだ。
 58・5cm、3・1kg。Fさんが生まれて初めて釣り上げた「メジナ」である。横にいたT原さんが「昨日釣った50cmがカスに見えますよ、おめでとうございます」と奇妙な祝福をしてうなだれた。 しきりに感心する私に本人は「これってそんなに凄いサイズなんですか?」とささやいた。自分が釣った尾長の大きさの意味が分かっていなかったようである。「今夜のビールはFさんの奢りだからね」という言葉で、ようやく大きさを実感できたようだ。
 これには後日談もあり、翌日、同じ釣り場に入ったFさんの竿にまたしても大型のメジナがヒットした。今回は落ち着いて取り込みまで持ち込み、「これって昨日のメジナと違うんですか?あまり走りませんでしたけど」と網のなかの魚を覗き込む。見ればそれは尾長ではなく50cmの口太だった。生まれて初めてのメジナが尾長の58・5cmで、2匹めが50cmの口太なんていう釣り人は滅多にいないと思う。その日は全員安打で早めに宿へ戻り、百川さんが作ってくれた尾長のタタキを食べながら島焼酎を飲む。
 船頭さんや島の釣り人も加わって、天気の話、釣りの話、ちょっぴりHな話もあり、昨日まで他人だった釣り人が、いつのまにかいっしょに夜空を見上げ、明日の風向きなどを心配し合っている。この雰囲気がいい。酔いが回らないうちに翌日のオキアミを冷凍庫から出しに行く。
 釣りという遊びは不思議である。生まれも育ちも年齢も職業も地位も、ときには性別も違う人間が、たかだか魚を釣るためだけに集い、ふだんは滅多に開かない心を通わせ合うのだ。こんな遊びも珍しい。

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 3日目と4日目は島の東側にある大根で竿を出し、そこそこサイズの尾長をそこそこ釣って、北海道メンバーは最終便で帰路に着いた。空港ですっかり晴れ渡った空を見上げながら「また雪のなかへ戻らなくちゃならないんですね」とU野さんがつぶやく。彼らの短い夢旅はこうして幕を閉じた。
 私はみんなを見送ったあとさらに1泊して小島に渡ったが、大荒れのコウダテには50cm級の巨大ムロアジとウスバハギしかいなかった。帰りの渡船で「今日」が1月17日だったことを思い出した。1年前の今日も私は八丈島にいた。西のほうで大きな地震があり、たくさんの方が亡くなったらしいと聞いたのは、小島から戻る渡船のなかだった。ひとり手を合わせる。
 宿に戻ってシャワーを浴び、大急ぎで帰り支度を整え、荷物を送り、百川さんの運転する車で空港へ。空港のまえの斜面には炎のようなアロエの花が、西陽に揺れながら静かに燃えていた。震災で亡くなった人たちの魂もきっとどこかで柔らかな陽射しを浴びて炎のような花を咲かせているに違いない。
「アロエの花が終わってフリージアが咲けば、島の冬は終わりだ」と百川さんがつぶやいた。今年の八丈島はおもしろそうだ。
「今度はいつ来る?」
「アロエの花が枯れないうちに」

※ここに再録したのは、1995年の夏から釣り総合誌『つりマガジン』(桃園書房)に連載した釣行記(遠くまで近くまで)の一部を修正加筆したものである。近いうちに削った部分を入れて釣行記全体をまとめて電子書籍にしようと思っているが、いつになることやら。ちなみに挿絵は名取画伯の手によるもの。ただし、スキャンした画像は劣化と裏写りがあるため若干の補正と修正を加えた。

2015/09/10

ミチロウ釣り旅日誌から-1

鶏肉を食べられない!

 人間だれにも弱点というのが一つや二つはある。恥ずかしくて人に言えない弱点もあれば、他人からみればべつにどうってことないような弱点もある。
 自慢じゃないけれど、私にも大小さまざまな弱点がある。もちろん、人に言いたくないような弱点もいくつか抱えて生きている。そんな弱点のひとつ(これは公表しても人格的影響はないと思う)が、鶏肉を、つまりチキンを食べられないということなのだ。正確には鶏肉だけではなく、鴨や雉やダチョウやコウノトリやコンドルも含め、鳥類の肉すべてが苦手なのである。
 ただの好き嫌いと言ってしまえばそれまでだが、みんなが「今夜は焼き鳥でパーッといってみようか」と盛り上がっているとき、横から「あのさ、わるいんだけどボクは鶏肉が食べられないんだよね」と言い出すのは勇気が要る。ケンタッキーフライドチキンなんかに入っても、カーネルおじさんには申し訳ないけれど、フライドポテトや焼きおにぎりなんていう、まったくメインじゃない食べ物を口に運ぶしかない。
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 私が鶏肉を食べられなくなったそもそもの発端は、小学校の運動会で怪しげなオジサンからヒヨコを買ったことにある。私は昆虫及び動物大好き少年だったし、アリやケムシを部屋で飼ったこと(アリやケムシはすごく迷惑だったと思うけれど)さえある。というわけで、そのヒヨコを枕元に置いて少年はひたすらかわいがった。結果、ヒヨコは少年の身勝手な愛情をいっぱいに注がれて元気に育ち、立派なトサカを振り立てて、毎朝コケコッコー、コッカドゥドゥルドゥーと大声で叫び続けるようになった。
 当時の一般家庭で、ニワトリが純然たるペットとしてその生涯をまっとうする可能性は極めて低かった。ある日、学校から帰るとニワトリ小屋にニワトリ君がいない。親父殿が頃はヨシとばかしに締め、食卓に載せるべくせっせと毛をむしっているところだった。子ども心にもオンドリはいずれ食べられる運命にあるのだと理解していたつもりだが、美味しそうに料理された最愛の友を目の前にすると、どうしてもその料理が喉を通らないという事態に陥った。それまでは、平気で鶏肉を食べていたのだそうである。
 以来、私は鶏肉を食べられなくなった。けっして動物愛護の精神が芽生えたわけではない。だから自分の近くで鶏肉を食べる人がいても不愉快になることはなく、焼き鳥屋から漂う鶏肉を焼く匂いはむしろ美味しそうだとさえ感じる。でも、食べられない。ずっと昔、付き合っていた女の子が鶏の唐揚げを手にしながら「口移しで食べさせてあげようか」と申し出てくれたときも、ついにウンとは言えなかった。彼女の魅力的な唇と唐揚げを見比べて真剣に悩んだのだけれど、私はため息をつきながら首を横に振った。
 だから、私は食べ物の好き嫌いにはけっこう寛大なほうである。食べられないものはしかたないのだ。深い人生のあれやこれやが影響した結果なのだから「こんなに美味しいのにねぇ」などと責めてはいけないと思う。

 ところで、先日。自宅近くにあるデパートに勤務する知人たちと伊豆半島へ釣行する機会があった。夜の8時頃に自宅を出発し、西湘から小田原、熱海を抜け、深夜に下田にある須崎港に到着した。
 精肉店に勤めるTさんがクーラーボックスから缶ビールを取り出し、キャンピングライトの周囲につまみを並べた。大漁の前祝い。楽しい宴会である。が、私のまえに並べられたのは美味しそうな(?)焼き鳥だった。
「これね、店で評判いいんですよ。高木さんもどんどん食べちゃってください」
「あ、えーと、あのー」
 ここからいつもの言い訳がはじまる。何度くり返してもこれは辛いものだ。あのとき、ヒヨコさえ買っていなければ…そんな思いが脳裡をよぎる。
「そーなんだ、牛とか豚は大丈夫?」
「鶏以外ならなんでもOK」
「じゃ今度は牛か豚にしますね」
 車座になり、夏の深夜に港で飲む冷え冷えビールはじつに爽快であった。時間がゆっくり回転している気分。いくらでも飲めそうだったけれど、翌日に備えて深夜1時30分にはお開き、ゴミを片づけてから車で仮眠を取る。
 翌朝は無風、ベタ凪で、かすかに靄が立ちこめている。早朝の港をぶらぶら散歩してから釣りの準備を整えて渡船に乗り込む。トビウオたちが羽根(本当は胸ビレ)をいっぱいに広げて海面を滑空する。夏である。朝の静けさを船のエンジン音で邪魔され、ちょっぴり怒りに充ちた早朝飛行だったのかもしれない。「まったくぅ!」という声が聞こえてきそうだ。あ、いかんいかん、あまり感情移入するとトビウオまで食べられなくなってしまう。

※ここに再録したのは、1995年の夏から釣り総合誌『つりマガジン』(桃園書房)に連載した釣行記(遠くまで近くまで)から釣りに直接関係ない部分を抜粋したものである。近いうちに釣行記全体をまとめて電子書籍にしようと思っているが、いつになることやら。ちなみに挿絵は名取画伯の手によるもの。

2015/06/29

湘南点描-12/草いきれのなかを…

草いきれのなかを…

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  今年も(梅雨空の向こうから)夏がやってくる。
 湘南に一番似相応しい季節はやっぱり夏。
 海からの風がサンオイルの匂いと青い光を運んでくる季節だ。
 生まれたばかりの入道雲。
 寝苦しい夜々がはじまる。
 不思議な、球形の、透き通った、夜。
 詩人の安東次男が書いた詩に
  あすは、
  すいみつ。せみ。にゅうどうぐも。
 というひらがなだらけの不思議な詩句があるが、その年の最初の寝苦しい夜には、いつもこの詩句を呪文のように唱えてしまう。
 水蜜桃に充たされた濃密な闇、木漏れ日の向こうから降り注ぐ蝉の声、透明な夜の水平線から湧き上がる入道雲!

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 もうすぐ2歳になる下の娘を乗せ、海まで自転車を走らせる。
 自宅を出て、江ノ電の線路沿いを鵠沼駅まで、さらに境橋を渡って片瀬川沿いの砂利道を走る。
 きらめく川面には潮の香りが吹き抜け、光を散らしてボラがジャンプする。
 途中の東屋風休憩所でひと休みしたあと、また川添いの道を海に向かってペダルを漕ぐ。
 夏へ向けてペダルを漕ぐ。
 江の島が見える河口まで一気に走ることもあるが、お気に入りは西浜橋から山本橋を右折して西浜へ出るコースだ。
 
 海で娘を遊ばせたり、マリンランドでイルカのショウを観ながら、その向こうに見える海と空を眺める。
 平日の午前中はさすがに観光客もまばらで、どことなく本番まえの練習をしているようなのんびりとした空気が漂う。
 
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 帰りには浜野水産で春は釜揚げしらすを、夏はタタミイワシを買い、草いきれをかき分けかき分け、昼食に間に合うようにペダルを漕ぐ。
 心地よい汗がジワッと
 背中や首筋に!
 走ってもはしっても夏。
 あすは、すいみつ。せみ。にゅうどうぐも。
 

※安藤次男は好きな詩人のひとり。とりわけ1960年に出版されたという『からんどりえ 詩集/駒井哲郎画』の印象は強烈だった。もちろん、私はその十数年後に読んだわけだが、たとえば「球根」と題された6月の詩である。「みみず けら なめくじ/目のないものたちが/したしげに話しかけ/ る死んだものたちの/瞳をさがしていると/一年じゆう/の息のにお/いが蠢めき/寄つてくる/小鳥たちの死骸/がわすれられた/球根のようにこ/ろがつている月/葬られなかつた/空をあるく寝つき/のわるい子供たち/あすは、すいみつ。せみ。にゆうどうぐも。」ちなみに「からんどりえ」はカレンダーのこと。

※私が神奈川県藤沢市に引っ越してきた頃、この街には『藤沢風物』というタウン誌があり、フリーランスライターになってろくに仕事もなかった私はここでいろいろな仕事をお手伝いしながら何本かの連載エッセイを書かせていただいた。それは貴重な文章修行になったが、無名の若造にそんなページをあたえてもらったことには今も感謝している。
「湘南点描」はこのタウン誌がなくなるまで続けた最後の連載で、湘南の写真と短い文章で綴った思い入れのある連載だった。当時使った画像が行方不明なので古い画像や最近の画像を添えて再録。文章についても若干の手直しをして「無名の若造」をサポートした。

2015/03/01

湘南点描-11/夢のなかの江ノ電

夢のなかの江ノ電

 子どもの頃、毎晩のように、同じ夢を見てうなされた時期がある。
 緑色と青色だけで構成された抽象的な湿地、高さも色も均一な草が生い茂り、まるで鏡を切り取ったような池があちらこちらにあって、池には雲が浮かび、湿地にずっと向こうには青く塗られた海が音もなく広がっている。
 明るいような、暗いような。
 爽やかなような、陰鬱なような。
 ジョルジョ・デ・キリコの絵画のなかの風景にもどこか似ている。
 あるいはポール・デルヴォーのような。
 もしくはルネ・マグリットのような。

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 そんな景色のなかを〈私〉は走っている。
 とくに楽しいわけでも辛いわけでもなく、ただ走っているのである。
 ふいに、とはいえいつものことなのだが、蒸気機関車が海を突き破って、真っ正面から〈私〉に迫ってくる。
 それまで質感さえなかった湿地が、いきなり湿り気を帯びてぬかるみ、足をズブズブと引き込み、〈私〉は手足をばたつかせて溺れ、機関車はスローモーションで頭上に迫り、けっして通過することなく迫りつづけ、次第に息苦しくなって目が覚める。
 と、きまって、周囲の音が大きく聞こえるのだった。
 フライパンで油が跳ねる音、蛇口から噴き出す水の音、窓を打つ風の音、トーフ売りが吹くラッパの音、砂利道を踏みつける音。
 ど・お・し・た・の・? という母の声までが大きく、ゆっくり迫ってくる。
 私は頭から布団をかぶってジッとしているしかなかった。

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 思春期を迎え、そんな夢にうなされることもなくなったが、この街で初めて江ノ電を見たとき、夢とまるで同じ感覚に襲われた。
 考えてみると、ふいに路地から飛びでてくる電車、海を背景に走る電車、湿地を連想させる川を渡る電車、という絵柄が似ていたらしい。
 もっとも、それは一瞬にすぎず、周囲の音が大きく聞こえることもなく、江ノ電は明るい警笛を鳴らしながら腰越駅へ向けて走り去った。
 以来、十数年、私は走る江ノ電が見える場所、江ノ電の走る音が間近に聞こえる場所に住んでいる。
 どういう巡り合わせか
 幼年期にうなされた夢とよく似た環境に。

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※藤沢へ引っ越したばかりの頃は、江ノ電藤沢駅からひとつめの石上駅とふたつめの柳小路駅の中間、鎌倉に向かって左側沿線に部屋を借りていた。線路からは50mも離れていない近さだったし、最終電車が通過したあと、夢のなかを江ノ電が通過することもあったが、うなされることはもうなかった。その後は江ノ電から少し離れた鵠沼桜が岡を経てふたたび江ノ電沿いの鵠沼橘へ移り住んだ。このエッセイは鎌倉方面からの江ノ電が石上駅を過ぎて小田急デパート二階にある藤沢駅へ向かって坂道を上り切ったあたりに住んでいた頃に書いたものである。現在は江ノ電から遠く離れ、鵠沼海岸に打ち寄せる波音がかすかに聞こえるあたりに住んでいる。

※私が神奈川県藤沢市に引っ越してきた頃、この街には『藤沢風物』というタウン誌があり、フリーランスライターになってろくに仕事もなかった私はここでいろいろな仕事をお手伝いしながら何本かの連載エッセイを書かせていただいた。それは貴重な文章修行になったが、無名の若造にそんなページをあたえてもらったことには今も感謝している。
「湘南点描」はこのタウン誌がなくなるまで続けた最後の連載で、湘南の写真と短い文章で綴った思い入れのある連載だった。当時使った画像が行方不明なので古い画像や最近の画像を添えて再録。文章についても若干の手直しをして「無名の若造」をサポートした。

2015/02/26

湘南点描-10/ANY WHERE OUT OF THE WORLD!

ANY WHERE OUT OF THE WORLD!

 旅への憧れほど人を魅了するものはない。
 けれど、世界はあまりにも狭くなりすぎたようだ。
 水平線の向こうにはこことは別の島や半島や大陸があって、そこにはここと似たり寄ったりの日常がくり返されていることを私たちは知っている。
 旅に出るまえから、知っている。
 だから、そこには驚異もなければ未知もない。冒険もない。
「地図と版画に夢中な子どもにとって、宇宙はその果てしない想いと同じ大きさをしている。世界はランプの輝きの下で、なんと大きく見えるのだろう!思い出の中では、なんと世界は小さいのだろう!」(廣田大地訳)
 フランスの詩人シャルル・ボードレールは詩集『悪の華』所収の『旅』をそんなふうに書きだしている。
 たしかにランプの下の世界(つまり想像の中の世界)は果てしなく、思い出の中の世界(つまり現実に経験した世界)は小さく、狭すぎる。

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 初夏。
 鵠沼海岸に小さなヨットが置いてあり、帆が正午の太陽を遮って、誰もいない砂浜に三角形の影を貼り付けていた。
 ヨットの小ささが子どもの頃の空想旅行癖を呼び覚ます。
 小さなヨットにとって、海はあまりに広大な空間であり、はるかな水平線はこの世の果てへとつながり、その向こうにもうひとつの退屈な日常なんて存在するはずがないのだ。
 しかし、想像力を乗せることが可能な乗り物は限られ、乗り物の速度や大きさが想像力を超えたとき、皮肉なことに、世界はどんどん小さく縮んでしまう。
 飛行機に乗ってもスピード感がないのは、飛行速度が我々の想像力を超えているからなのだろう。

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 人気のないシーズン前の海岸に座り、この小さな想像力の乗り物を眺めていると、無性に旅への憧れが頭をもたげてくる。
 ゆっくりと瞼を閉じる。
 心にランプの灯がともる。
 何処へ?
 ANY WHERE OUT OF THE WORLD!
 この世の外ならどこへでも!
 湘南には、そんな空想旅行を愉しめる発着場がいたるところにある。

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※『旅』の翻訳はこの文章を書いた当時は福永武彦訳を使ったと思うが、再録に当たってはインターネットで見つけた若いボードレール学者である廣田大地氏のHPに掲載されていた翻訳を使わせていただいた。ちなみにこの文章の題名に使い文章の最後にも登場する「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」はボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』所収の作品タイトル。

※私が神奈川県藤沢市に引っ越してきた頃、この街には『藤沢風物』というタウン誌があり、フリーランスライターになってろくに仕事もなかった私はここでいろいろな仕事をお手伝いしながら何本かの連載エッセイを書かせていただいた。それは貴重な文章修行になったが、無名の若造にそんなページをあたえてもらったことには今も感謝している。
「湘南点描」はこのタウン誌がなくなるまで続けた最後の連載で、湘南の写真と短い文章で綴った思い入れのある連載だった。当時使った画像が行方不明なので古い画像や最近の画像を添えて再録。文章についても若干の手直しをして「無名の若造」をサポートした。

«湘南点描-9/光のなかの子ども

フォト

釣即是空(2)津軽半島

  • 新緑に染まる海を走る
    津軽の海でマダイ釣り。満開の桜も見事でした。

鳥獣花虫戯画-1

  • 津軽のゴメ1
    街や海で見かけた鳥、動物、植物、昆虫などを写真に撮るのはおもしろい。特に釣り場では彼らも警戒心を和らげるせいか思わぬ行動に遭遇することが少なくない。そんなカットをチョイスして並べてみた。

函館スケッチ

  • Hakodate-sketch_26
    2008年1月、北限のクロダイを釣りに函館へ出掛けたが、猛烈な吹雪に見舞われて初日の釣りは中止。カメラを片手に函館の街をぶらぶら歩いてみた。

鳥獣花虫戯画-2

  • Ajisai_9
    はなのいろはうつりにけり…。2008年、紫陽花変化に時間と時代の移ろいを感じてしまう今日この頃です。

釣即是空(1)北海道

  • オホーツクにはやっぱりサケが似合う
    釣りに固定的実体はなく空なり。空なれど虚にあらず。釣りにまつわるあれこれを画像に収めて並べ、せめて空なる釣りを縁取らんと欲す。なんちゃって。

鳥獣花虫戯画-3

  • 16
    2008年の夏を彩った昆虫たちと昆虫に近いヤツら。 来年も、また。再来年も、きっと。

引地川スケッチ-1

  • HikijiRiver1-1
    相模湾に面した鵠沼海岸から1kmちょっと、満潮になると海水がボラといっしょに遡上する引地川沿いに引っ越して3ヵ月ほど経過。まだまだ川沿いを右往左往するばかりだが、少しずつ川の呼吸音が聞こえてきたような気がする。

子犬がやってきた!キャン、キャン、キャン

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    ちゃんと犬を飼ったことはないのだけれど、昔から、なぜか犬とは相性がいい。きっと前世が犬だったに違いない。飼い主の言うことを聞かない偏屈な犬。 願わくば、わが家の一員となったこの小犬が素直に育ち、いつまでも散歩に付き合ってくれますように!

湘南の桜咲く。

  • 満開の桜の樹の下には…。
    ようやく湘南のあちらこちらで桜が咲きはじめた。仕事の合間、桜に誘い出されて江ノ島近くまで出掛けた。自転車の前カゴには珈琲を入れたポットとカメラを載せて。

仔犬、その後~1

  • Imgp9926silk1
    ブログを見てくれた知人数名から「あのワンちゃんはどうなりました?」と尋ねられた。そこで、偶然わが家にやってきた仔犬(母=芝×父=?のMIX)のその後をご紹介。もうすぐ3歳。体重8kg強。これ以上は大きくならないらしい。性格はビビリでおだやか、争いごとを好まぬ平和主義者である。

時化の日の愉しみ