2009年11月 3日 (火)
2009年10月28日 (水)
港のそばで
Sitting in the morning sun
I'll be sitting when the evening comes
Watching the ships roll in
And I watch 'em roll away again・・
-ジョージアから出てきた放浪者が
サンフランシスコの港にたどり着き
寄る辺ない身の上を嘆く哀歌である。
1968年3月、ビルボード週間ランキング1位を記録。
レコードは、つい買いそびれたまま。
オーティス・レディングは1941年ジョージア州出身。
私より10歳年上になる。
しかし彼はこの曲のヒットを知らずじまいだった。
録音完了3日後に飛行機事故で死亡。享年26歳。
「ドック・オブ・ザ・ベイ」
港町界隈でふと思い出す、懐かしの一曲である。
(2009.10.28/イチロー記)
2009年10月20日 (火)
西の浦賀道へ(下)
安土桃山時代末期より三浦半島への主要交通路として使われていた「鎌倉浦賀道」。
更に遡ること800年、飛鳥・天平の時代に既に開かれていたという「古東海道」。
それより昔、いかなる街道も無かった時代から、現在平作川と呼ばれる川が三浦半島の中心部を流れていた。
縄文海進の時期には衣笠十字路辺りまで久里浜湾が入り込んで、川というより入り江に近かったらしい。
時が過ぎて海が後退すると川に沿って平地が開けた。
北西から南東をめざしてこの小さな半島を横切ろうとするとき、街道も川と同様、衣笠という内陸の平地を通り抜ける事になる。
三浦丘陵を下りた鎌倉浦賀道=古東海道は、JR衣笠駅の手前で県道と交差する。葉山、池上、衣笠を通って久里浜方面へ向かう県道27号線(横須賀葉山線)だ。
川はそのあたりで鋭角に折れ曲がり、暫くの間衣笠栄町のメインストリートの背後に隠れ、駅や繁華街の側からは目にすることが出来なくなる。
従って駅に降り立った旅行者は、ここが川のある街とは多分気付かないだろう。
古い道は県道を横切った後、繁華街と平作川の更に裏手を東南方向へ続いている。
衣笠から公郷にかけての道筋には、大明寺、光心寺、曹源寺、妙真寺という順番で成立時期・宗派とも異なる中規模の寺院が、狭い範囲で次々と現れる。
特に曹源寺は、残存している古代瓦などから、古東海道の時代に唯一存在した古代寺院と目されている。
現在山門は谷戸側の奥まった位置にあるが、かつては周辺の宅地、横須賀高校の敷地も含む壮大な寺院で、公郷町一帯に門前町を形成していたのではないかと思われる。
古い道はその中心を通っていたはずだ。
しかし現代においては、曹源寺も他の寺もそれぞれ谷戸側に引っ込んだ立地のせいで、ひっそりと取り残されている。
だいたいここは京都でも鎌倉でもなく、横須賀なのである。
お寺を回って歩く観光客の姿はおろか、墓参り客以外は誰もいない。
かつての古道も、今は車と高校生たちの行き交うありふれた裏通りで。
その道筋にぽつんぽつんと「よこすか古道散歩」の案内ポールが立っているのだが、印刷方式がまずかったのか、天面アルミ・プレートに描かれた地図はどれも風化して現在地、進路とも不明の異界の案内図のようにかすれている。
平作川は公郷2丁目付近で再び県道を逆に横切り、久里浜湾をめざして水量を増してゆく。
一方、古道は次第に平作川から離れ、金澤うらが道との合流点である大津を目指して進む。
公郷を過ぎた古道は大津運動公園、戦前の海軍大津射的場手前で小さな坂道を下る。
坂の右手にはいくつかの庚申塔と、廃神社から回収された狛犬、石仏などが居並ぶ。
左手の丘には、これまたひと気のない稲荷神社と赤鳥居。
確か小学校時代の友人の家があったはずの、住宅地の一角だ。
この影の多い天神坂が、昔は浦賀道であり古東海道だったと、どこで聞いたのだったか。
海はもう遠くない。
沿岸部を前に、道は最後の丘陵地帯に差し掛かる。
鎌倉浦賀道は、京急新大津駅の裏側にある大津諏訪神社の鳥居にぶつかるとすぐ左に折れ、蓮如ゆかりの信誠寺(しんじょうじ)の先で右に分岐する。
ひとまず丘陵を避け、海寄りに丘を回りこんだ格好になる。
丘の下にはおりょうの墓がある信楽寺(しんぎょうじ)、付近は江戸湾を守護する幕府の大津陣屋があったところだ。
分岐の先を10分ほど道なりに進めば京急大津駅前。
ここが金澤うらが道との合流地点であり、西回りの浦賀道としては、ここで終わりー。
しかし、鎌倉浦賀道は諏訪神社の鳥居を右に折れて、その先の池田、吉井の丘を迂回し幕府の御用林であった通称”御林”を抜けて西浦賀へ出る第二ルートがあったと云われる。
浦賀に着くまで海を見ない内陸回りのルートだが、距離は大して違わない。実際に歩いてみると、江戸時代から変わらないような、うっそうとした寂しい林道。この道筋には大善寺と、浦賀の回船問屋の墓所が多い真福寺がある。
西回りの浦賀道は正副どちらをたどっても、最終目的地の浦賀奉行所に至る。
しかし古東海道の行き先は、そこではない。
浦賀港も、浦賀奉行所もまだ存在しなかった時代。
古事記、日本書紀では、走水付近の海辺から房総半島に渡ったことが示唆されるが、それを証明できる文書や遺跡は見つかっていない。
現在の古東海道研究では、走水と、観音崎を回り込んだ鴨居あたりが有力な渡海地点となっているが、どこをどうめぐってそれらの汀へ出たのかは未解明である。
浦賀道と古東海道の分岐点も結局、わからないままだ。
今となっては歩ける道を歩いて、想像するしかない。
平作川にそって衣笠から県道27号線を南下していくと、やがて佐原、内川新田の手前で川幅が広がり、見違えるような立派な川に成長している。
その辺りで県道と別れ、直角に折れると、大津の南にあたる吉井という丘が見え始める。
馬堀海岸を眼下に望むその沿岸丘陵は、うっそうと常緑広葉樹の繁る森だった。しかし近年大規模開発が進んで、緑の森は無残な禿山になった。
間もなくこぎれいな、整然とした新興住宅街に変わった。
横浜横須賀道路がその丘を貫いて、観音崎方面へつながったのはごく最近のこと。
住宅に包囲され、地下にトンネルという丘の天頂に孤島のように残った緑がある。明神山と呼ばれる山の頂上だ。
安房口(あわぐち)神社と、僅かに残ったマテバ椎の森。
訪れる人は”トトロの森”を連想したり、”パワースポット”と呼んだりするらしい。確かに鳥居をくぐって薄暗い参道を進むうち、次第に日常の空間から切り離され、結界の中心部に閉じ込められた気がしてくる。かつてアルジャノン・ブラックウッドは柳の密生するドナウ川流域の異界を描いたが、ここの風景はマテバ椎の異界の森である。
安房口神社は古代神社に良く見られる、社殿を持たない原始的な盤座(いわくら)様式の神社と考えられ、重量1トンを超えるような巨石がご神体である。
この石は大昔に房総半島から飛来したものだと、また古代にはヤマトタケルがここで東征の武運を祈り、中世には北条政子がここで安産祈願をしたと、おかしな表情をした狛犬の脇の由来板に書いてあった。
安房とは房総半島の古い名称。
何より神社の名前こそ、謎だろう。
三浦半島の丘の上に、安房の口とは、何を意味するか。
もしかすると古道はこの丘を越えて、海へ向かったのではないのか?
巨石の周囲には、マテバ椎の木漏れ日が深い影を作っていた。
奇妙に揺らぐ木漏れ日の中を歩いて行くと、森が突然終わって遠景に海が開けた。
[album: 西の浦賀道(下)]
(2009.10.20/イチロー記)
2009年10月 8日 (木)
2009年10月 1日 (木)
都市の縁で
長い間、下町は高台の下に
あるから”下町”と云うのだと思っていた。
随分後になって、それは端に
この半島特有の沿岸丘陵地形によるものであり、東京など他の”下町”はこんな風に特異な高低差はないらしいと、一応納得した。
しかし子供の頃に枯れススキの茂ったどこかの断崖から垣間見た、
眼下に広がる<都市>の残像は、そう易々と消えるものではなかった。 殆どのビルは足元にあって、屋上の様子まで窺える。
それが私の知る<都市>の在り様だった。
サラリーマンになって都心のビジネス街を回っているとき、果たしてこれが大都市というものかと、ビルの谷間でいぶかしい気分になった。
建物はやたら大きいが、何処まで行っても風景は右左の狭い範囲しか目に入らず、街並みは高いビルや塔など人工の高台へ登るか、又は空からしか見分けられない。
それは記憶にある<都市>とは違う風景だった。
以前、「繁華街の裏山へ」の石段を登った時も、かつて見た横須賀
下町の<都市>の眺望を、もういっぺん高い位置から追体験したいという気分があったように思う。
実際、横須賀にはJR駅の裏山、深田台の公園など街全体を一望できる高台が今でも結構ある。
横須賀隧道の少し手前から民家の合間を縫って古い階段を上り詰めると、目の前に大きな鉄塔があり、そこから道は再び下り坂になっている。海軍施設へ電力を供給する東京電力子(ね)ノ神山開閉所があったところだ。
眼下に本町や汐入市街を臨むこの曲がり角は、うらが道の道筋でもある。
立ち止まって視線を上げれば、左前方にマリンブルーに光る横須賀港が開ける。
昭和20年夏、聯合艦隊の旗艦だったこともある戦艦「長門」が終戦
まぎわの爆撃を受けて、もうもうたる黒煙を上げていた筈の方角である。
燃料・弾薬は既に尽きており、爆撃で中破したまま横須賀港に浮かび続けた。帝国海軍に残された、航行可能な唯一のバトルシップとなっていた。
米軍は長門に対しても、軍都横須賀の街や谷戸にも、何故か徹底攻撃をしていない。横須賀は一旦原爆投下候補地にもリストされるが、じきに外されたらしい。
およそ一年の後、かつての高速戦艦は、のろのろとマーシャル諸島・
ビキニ環礁の原水爆実験場へ、自力で向かっていった。
曲がり角の石垣を回り込んだ角地には、無用となった「海軍用地」の
石柱がぽつんと取り残されている。
いにしえから続く谷戸の路地は、随所で途切れながら数世紀の時を跨ぎ、いまはしばしの間<都市>の外縁をめぐる空中回廊となっている。
(2009.10.01/イチロー記)
2009年9月24日 (木)
谷戸の犬
富士見町をいくら歩いても飽きないのは、谷戸の景色が常に変化するからだろう。
平坦なところや直線的なところは殆どない。
今居る場所からほんの少し動いたり、視線をずらせば、風景の方が勝手に変化してくれる。
この犬は、そんな谷戸が気に入っているらしい。
坂道や階段は我先に上る。
上りきって谷を見下ろす場所まで来ると
谷戸風に鼻を向けて、ほうっと息をついたりしている。
たまに誰もいない路地や公園で、じっと立ち止まって動かない。
誰もいない前方を、まるで”誰かがいるように”凝視している。
少しは霊感があるのかもしれない。
勿論何事も起こらないが
そういう時は私も付き合って待ってみる。
思えば谷戸歩きを始めたのは、この犬の散歩からだった。
彼が案内してくれたのは、初めと終わりがループになった
淋しくて豊かな、思いがけず懐かしい国々で、
私はといえば
未だにそこから出られないというわけである。
(2009.09.24/イチロー記)
2009年9月16日 (水)
寒々とした近未来路地の話。
沿線の駅周辺にあった街が取り壊され、そこに巨大なショッピングモールが造られるという開発事業が盛んである。
ショッピングモールはたくさんの小売店が集まった大規模な複合商業施設であり、それがかつての駅前商店街に取って代わるのだろう。
休日ともなれば周辺から人々が集まり、人工的な遊歩道を歩くというのが一種の流行となっている。
モール(mall)は遊歩道、遊歩空間といった意味を持つ。人々はショッピングを目的に造られた人工の街をぶらぶら歩き、買い物を楽しみ、食事をする。
まるでディズニーランドのような街並みが続き、広いメインストリートにはゴミひとつ落ちていないし、あちらこちらで大道芸のような催し物が行われ、街の中心もしくは街外れにはイベント広場があって、品のよい音楽が奏でられていたりする。
その周辺には綿菓子やポップコーンを売る屋台が並び、子どもたちは祭りの疑似体験をする。
すべてが計算され尽くした街。
あまりにも清潔で、影や負をイメージさせるものが見事なまでに排除された光と正だけで成り立つ空間。
メインストリートから枝分かれした路地風の横道にもさまざまな店が続いていて、そこには理容室、ブランドもののぬいぐるみやレゴなどをきれいにならべた玩具店、雑誌と文庫本とコミック本と実用ガイドブックだけを置いた書店、アロマテラピーの専門店、珈琲豆と輸入物の紅茶とドレッシングを扱う店などが並んでいる。
家族に付き合ってそういう「街」を訪れることもあるが、そのたびにぐったり疲れてしまうのはなぜだろう。
街路樹はきれいに剪定され、無駄な枝は見あたらず、枯れ落ちた花や枯れ葉はいつだってきれいに片づけられ、理想的な形の影を、歪みも不規則な凹凸もない路面に落としているだけだ。
眉をひそめるようなものはどこにもない。
周囲には息苦しいほどの清潔感が漂っている。
巨大ドームのような建物のなかに造られた人工の街もあって、こちらは街全体を包み込む明るさや温度や湿度まで微調整されている。空調システムによってさわやかな季節ごとの風を演出するショッピングモールさえあるらしい。
ふと、自分は核戦争後に造られた巨大なシェルターにいるのではないかという錯覚に陥ってしまう。
核戦争とは限らないけれど、何らかの原因で人類が絶滅の危機を経たあとに造られる地下都市はこういうものになるのかもしれない。
そこには人が不快を感じる現象、モノ、景色はすべて排除され、遠い過去のデータから人類にとって最良であると認識されたものだけが選ばれ、集められ、理想的な形で再構築される。
しかし、そんな空間で人は幸福に生きていけるものだろうか。
必要なものはすべてある。
不用なものはなにもない。
汗をかく人間はおらず、寒さにふるえる人間もいない。
そこに放たれる昆虫や動物も人に危害を加えず、不快をあたえないものだけが選ばれるはずだ。
快適すぎる明るさ。
優しすぎる暗さ。
つねに一定のリズムで波を送る穏やかな海が街外れに広がり、氾濫することのない川には水族館のように「見るだけの魚」が泳ぎ、川向こうにはカブトムシとトンボとチョウチョしかいない人工の林があって、林を抜けたところにはバーベキューの匂いがすぐに排気され、夜になるとホタルが飛び交うキャンピング場も造られるだろう。
雨は心地よい程度に降り、太陽はいつもあたたかい慈愛に満ち、風はさわやかで、どこにも悪意が感じられない自然のなかで、人は生まれ、絶対に裏切られることも失敗することもない人生を生き、静かに死んでゆくわけだ。
それを「幸福」と呼ぶなら、残された人類には幸福な未来が待っていることになる。
しかし、そんな理想の街にあるベンチに腰掛け、どういうわけかずっと昔に歩いた駅前商店街を思い出す男がいるかもしれない。
駅の周りには妖しげなネオンや電灯が揺らめき、焼き鳥やウナギを焼く煙りがもうもうと立ち籠め、子どもたちが覗いてはいけない路地では厚化粧の女たちが客引きをし、グラスの触れ合う音が響き、演歌を大声でがなりたてる声や酔って口論する男たちの声がぶつかり合っている。
繁華街をすぎると豆腐店や総菜店、八百屋や米屋、菓子店、理髪店、文具店、畳屋、風呂屋、駄菓子屋、夏になると葦簀をめぐらしてかき氷を、冬には焼き芋を売ったりもする食料品店、表具屋、薬局、布団店、郵便局、電気店、レコード店などがほとんどなんの脈絡もなく軒を並べている。
路地を入ると質店があり、蕎麦屋、ラーメン店、修理屋を兼ねた金物店、玄関先に鉢植えを並べただけの花屋、ミシンの販売もする洋裁店があり、ごくふつうの民家もひと続きになった長屋が細く短い小路を取り囲む。
ときには、そうした商店がアーケードの下に連なり、夕方になると色とりどりの光が路地を照らし出す。
母親に連れられて買い物に出掛けたときの興奮は今も忘れない。
鮮魚店の生臭い匂いやコロッケを揚げる油臭い匂い、切り落とされたアジやサバやキンメや名前も分からない魚の頭が無造作に入れられた大きなバケツがあり、肉を削られたばかりの血の滴る骨がショーケースの片隅に並ぶ。買ってもらったコロッケを食べながら、そんな商店街をきょろきょろして歩くのが楽しみだった。
子どもたちに稚拙な手品を見せながら金細工を売るあやしげなおじさんがいて、小さな竹の虫かごに入れたキリギリスやスズムシを売るヘビースモーカーのおじさんがいて、スイカやトウモロコシを着色料に染まったスルメをしゃぶりながら売るおばさんがいて、その後ろには成人映画と文芸作品を交互に上映するような映画館があって、手を引く母親の歩みが急に速くなったりするのだ。
そこには無駄なもの、不用なものがあふれ、ありとあらゆる色彩、形象、匂いが渾然一体となっていて、選択することを許さない豊饒があった。
規則的であること、清潔であること、上質であることがすべての価値基準になったのはいつ頃からだろうか。
それが文明であり、進化であり、発展であるといった神話は、人間の感性を脆弱なものにした。
用と不用、きたないときれい、美味しいと不味い、利益と不利益、すべてがステレオタイプ化されてしまい、人の感性は表面がつるつるとして光沢を放つ清潔でクセがない、きれいな、新しい製品にしか反応できなくなったように思う。
崩れたもの、古びたもの、欠けたもの、色褪せたものはすべて廃棄される。
だから、自分自身の顔や体や精神が崩れたとか、古びたとか、欠けたとか、色褪せたと感じた人間は、そのことに耐えきれず、自分自身を廃棄することを選ぶようになる。
修理することをしない時代。
自分自身の心さえ修理しようとしない時代。
古いものよりも「地球に優しい新しい製品」を購入するほうがエコロジーになると本気で信じている時代。
何かがどこかで狂ってしまった。そんな気がする。
(2009.09.16/ミチロー記)
2009年9月12日 (土)
窓
よい窓はみな古い。
そしてそれらは多くの場合
閉じられている。
美しい窓が少なくなってきたのは
エアコンの普及のせいや
テレビやパソコンやケータイなど
別の窓が増えたせいもあるだろう。
家そのものも変わった。
障子窓が硝子窓に変わり、
やがて硝子窓の窓枠が
アルミサッシに変わる。
風にカタコト鳴る、
テープで目張りした曇り硝子の窓、
所々穴が開いて
隙間風の抜ける障子窓などは
もう跡形も無く
昭和の原風景となったのだろう。
そして開かれない古い窓には
いくら待っても人影は映らない。
やはり主がいないんだろうと
帽子を深くかぶりなおし
空の映った窓の下を
虚無僧のように歩いてゆく。
[album: 窓]
(2009.09.12/イチロー記)
2009年9月 5日 (土)
2009年8月29日 (土)
あの街この街
怖い話は大好きである。
でも毎年夏になると飽きもせずにやってる怪奇特番やら霊能者ものなどはなんとも思わないし、第一実際にこの目で「見た」ことがない。
ぜひ見たいとは思っているのだが、自分にはそういう能力はないのだ、と諦めている。
毎度昔話になってしまうが、そういう自分にもちょっとだけ
怖い経験ならある。20世紀末ごろの話だ。
サラリーマンをやめる直前のことで、
東京中のビジネスホテルを泊まり歩いていた。
これは仕事の都合というより長年の腰痛のせい、
身体が長距離通勤に耐えられなくなっていたのである。
泊まるホテルは毎回変わった。
ちょうどネット予約が普及し始めた時期で、
普段は高めのホテルでも結構ネット割引があったりする。
ただ会社に近い港区周辺はさすがに混んでいることが多い。
そういう場合はエリアを拡大して検索することになる。
底冷えのする1月末ごろのその日もそうだった。
近辺のホテルは全滅だったと思う。
どうも記憶が定かでないが、最終的に神田か水道橋あたりの
ホテルに空室を見つけてキーボードを叩いた。
そのホテルの名前は、何とかグランドと付いたように思うが、
はっきりとは記憶していない。
水道橋グランドやグランドパレスには泊まったことがあるが
そのいずれでもない。
残業が長引き、結局タクシーで現地へ向かった。
車窓の風景は寒々として歩行者も少ない。
新宿、渋谷などの繁華街を別とすれば東京の夜の街は意外と
寂しい界隈が多いものだ。
運転手にホテルの名前を告げてもわからないというので
適当な場所でおろしてもらって歩いた。
暗い路地をうろうろと往復したあげく
件のホテルへ到着したのは、夜10時過ぎだったと思う。
晩飯は済ませていたのでフロントでキーを受け取って
エレベーターに乗った。
自分の部屋は確か6階くらいだったと思うが、
廊下がとても長いのが印象に残った。
長い上にとても暗い。
ビジネスホテルとしては中規模で、往年はそれなりにデラックス
(死語?)な風格があったかも知れない。
しかしこの静けさ、ひと気のなさは異様な感じがする。
1階エレベータ右脇の一段高い場所に、ラウンジ風のレストラン
コーナーがあって、煌々とランタン照明が点いていた。
来る時に見たがそこにも客はいなかった。
客室は結構広くていやに白っぽい部屋。
壁もカーテンもまっしろで調度品まで白っぽい。
いくら基本色でも冬場にこれはないだろうと思う。
しかもよくよく見ればやはり白は汚れが目立つ。
それより問題なのは寒さ、本当に震えがくるような寒さである。
壁のダイアルをいくらいじっても、部屋が全然暖かくならない。
空調システムが壊れている、もしくは壊れかかっているのだった。
頭へきてフロントへ電話をするが、何回試しても話中である。
待ってられないのでフロントへ談判に行こうと、部屋を出て
エレベータのボタンを押したが、下層階で停まったまま。
仕方がないので暗い廊下のはずれ、階段の踊り場に向かった。
すると・・
結局何も見たわけではない。
非常用の照明だけの、薄暗い映画館の階段のような、
赤いフェルト地が古めかしい階段だった。
ひと気のない寂しい階段を降りるとき、
背後に強い気配を感じたのである。
反射的に振り返ったが、誰もいない。
フロントの係とは話が出来てすぐに調整するとのことだったが
寒さはついに朝まで解消されなかった。
あまりの寒さで苛立ち、それ以上に疲れていたので
ちょっとした錯覚をしただけかも知れない
朝のレストランは暖房が効いていたが、
昨日見た従業員以外、誰とも会わない事に変わりはなかった。
窓から覗く冬空は低く、どんよりと曇っている。
ぱさぱさするトーストをコーヒーで流し込んだが、
寝不足の頭は霧に包まれたように、いっこうに覚めてくれない。
身体もまた借り物のようで、思うように動かない。
これはまるでハリボテだ。
ほとんど無言で支払いを済ませて、一夜の宿を後にする。
「ここは寒すぎるぞ。今日は別のホテルだ。」
そうひとりごちて歩き始めたとき、背後に誰かの気配を感じた。
ゆっくり振り返ると、いま出てきたホテルの前に、
見覚えのあるコートを着た男がこちらを伺うように立っている。
勿論あれは、玄関ウインドウに映った自分だろう。
[過去に別のブログに掲載したものを加筆再録。この話は実体験だが
闇に包まれたホテルの廊下は、今思うと異界の路地のようだった。]
(2009.08.29/イチロー記)







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