錆びたクレーンのある入江で
横須賀港は複雑に入り組んだ天然の良港で、大きく2つの入江に分かれている。
南側に位置するのが横須賀本港、そして北側が長浦港である。
現在、米軍燃料基地になっている箱崎半島が2つの入江を分かつが、この半島は明治期に開削されて吾妻島となっており、付け根部分に開かれたその”荒井の掘割”と呼ばれる水路で相互に連絡している。
2つの入江は終戦まで日本海軍の要衝となった軍港であり、多数の軍艦を建造・修理した海軍工廠があった港湾地域である。
明治以降この土地に人が集中し、谷戸の上にまで居住地を押し拡げ海に面した商店街や色街が急速に発展していったのは、
富国強兵の国策に基づく軍都としての繁栄に依存する部分が大きかった。
もとより軍事とは結果として破壊するための生産体系である。
もっとはっきり、人口調整の装置と言い換えてもよい。
第二次大戦の犠牲者は推定で5000~6000万人、うち日本人は約310万人と推定されている。
歴史に”もし”はない。
が、仮にこの人々が死んでいなければ、21世紀の世界は現状とはまったく異なる様相になっていたかもしれない。
横須賀の街並みも、ドブ板通りのカンバンも、そしてあの谷戸の風景すら、かなり別の相貌を見せていた可能性がある。
遊郭は繁盛せず、女たちは別の街へ去ったかもしれない。
等比級数的に男女の出会いが変化する結果、私も含め、現在いる大半の人々が影のようにゆらぎ、可能性の彼方に消え去っていく。
私とはすなわち死んでいったものたちと、存在しなかったものたちの代理人であるに過ぎない。
かつてこの街の2つの港から数多くの軍艦が進水していった。
帝国海軍が誇ったそれらの艦船は、一隻も現存していない。
海軍工廠のガントリークレーンは横須賀本港と、長浦港にあった。
門柱型の特異な形状をした大型クレーンである。
横須賀本港のクレーンは戦後も活躍、横須賀の原風景となっていたが老朽化により昭和50年に解体された。
クレーンが聳えていた跡地には現在ショッパーズ・プラザ横須賀が建っている。
いっぽう長浦港一帯には、海軍軍需部、海軍工廠造兵部等の古い建物が現存しており、
その一部は相模運輸のF号倉庫などに転用されている。
もの淋しい倉庫街には、今は無用となった田浦駅からの貨物引込み線が一部草に埋もれたまま、様々な方角に延びている。
そして長浦港のガントリークレーンは21世紀まで残った。
穏やかな入江の一角で、ひっそりと赤錆びている
前世紀の近代化遺産として残そうという声も少しはあるそうだ。
でも、いずれ解体されるだろう。
(2008.11.15/イチロー記)
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コメント
意外でした。長浦にもガントリークレーンがあり、しかも現役とは。
ベースの正門近くにあったガントリークレーンは、私も子供の頃に撤去されることを知り、写真を撮りに行ったりしました。解体記念メダルも大切に残してあります。
実は私の祖父も海軍工廠勤務でした。
母は緑の中等部の頃に学徒動員で工廠で働いたそうです。
横須賀を語る上で、基地の話題は外せませんね。
ちなみに私は百恵ちゃんの後輩にあたるので、故郷を語る際のネタは百恵ちゃんでした(笑)。
投稿: ノンノン | 2008年11月22日 (土) 13時08分
ノンノンさん、こんばんわ。
私も実は意外だったんです。
あの長浦の入り江はすぐ裏が小高い丘になってまして、
16号線からもJR、京急双方の田浦駅の側からも見えない角度です。
ガントリー・クレーンがあるらしいと聞きつけて、
行ってみると確かにあるわけです・・・∑(゚∇゚|||)
祖父から子供の頃、なんども聞かされたせいで”ガントリクレーン”という言葉は、
もう耳に付いている。
一方で、もうあれはもう無い筈だろ、と思ってましたから、
実際にあの独特のカタチを見た時には、妙なデジャヴ感・・・
郷愁を感じてしまいました。
本町のクレーンより、やや小さいですが、近寄るとどうして、やはり大きい!
大正初期に建てられたんだそうです。
戦後、本港のは住友重機(民間)に払い下げられましたけど、
長浦は自衛隊に移転なので、残ったのではないかと思われます。
>私の祖父も海軍工廠勤務でした。 ・・・
そうでしたか。あの世代は、多かったですからね、軍関係の勤めが・・。
私の祖父は艤装関係をやってたようです。
今回の記事は、「青タイル・・」で海側へ出たんで、もう少し海側を回ってみようと思ったんです。
直接的には谷戸でも路地でもない為、しばし躊躇したんですが、
歩いてみると、静かで、風景がいい。
横須賀という街の裏側にある独特の”時間”を感じました。
投稿: イチロー | 2008年11月22日 (土) 23時01分