公園の記憶
富士見町1丁目と2丁目の谷戸を隔てる尾根道を歩く。
週2~3回行く散歩コースだ。
峠にある小さな寺を過ぎ、そのまま緩やかなアップダウンを5分程たどって行くと、緑に囲まれた公園が斜め下に見えてくる。
坂は一旦なだらかになり、路地らしく細くなって公園の縁を回り込み、円弧を描いたまま、また谷戸の底のほうに伸びていっている。
尾根道の南側は勾配とカーブに合せるように木造住宅が並んでいる。元の起伏を変えずに造成しているようで、曲がりくねった家並みがこの街らしい。
人間が谷戸に頼んで、住まわせてもらっている感じだ。
公園北側はいきなり10mほどの段差になっている。
コンクリート擁壁の下にも家々が密集しているが、傍へ寄らないと詳しい様子はわからない。投石防止ネットと立ち木の隙間から、かすかに安浦の海が垣間見える。
そこは谷戸の中腹に作られた小さな公園である。
直線にすれば家から0.5キロとない。
他の散歩犬や子供等がいる事もあるが、殆どの場合ひと気がなく静かだ。斜面を上がってくる風が気持ちよい。
犬と一緒に、初めてこの公園に入ったのはいつ頃だったろうか。
その日も燦燦と陽射しが強かったし、ベンチのある藤棚の下や隅の常緑樹の辺りは妙に深い影が落ちていた。
風になびく大きな緋色のマントが人目を引く。
そこにお地蔵さんがあることは、それで気付いた。
赤マントの右隣には「忍塚」と彫られた、別の自然石の碑。
他にも小さな墓石のような石塔がいくつか。
木陰に在るそれらの石碑群が、明るい空間に一種の磁場を作っている。光りと影が混じり合い、音は中空に拡散して響かない。
谷戸を往来する人々の過剰な生気を吸い取るような静寂。
慶応元年、後に造船所・海軍工廠となる横須賀製鉄所の建設工事が開始された。
横須賀が発展するきっかけとなった歴史的開発である。
建設地埋め立てに動員されたのは、江戸の石川島寄場から来た白衣の囚人達だった。
汐留の海岸に設けられた人足寄場に船で送られ、監視を受けながら一膳飯で働いた。
以前「崖下の20世紀」で触れた一角。
現在はホテルとベイサイドスクエアと芸術劇場、その前はEMクラブだったところ。
作業に従事した人数は凡そ200人、当然のように過酷な工事だったようだ。
翌年には病死者が続出した。
當軍港創肇工事中之犠牲者従役囚人
百五十一名乃行路病死者鎮魂碑
石段の脇に立つ案内柱には工事犠牲者及び行路病死者の鎮魂碑、とある。
氏名の記載は一切ない。
なぜ建設現場から遠く離れたこの谷戸に石碑があるかは不明だが
供養の対象となった151名は、どうやら工事犠牲者だけではない。
建てられた場所と同じく、「忍塚」が建った経緯も影の中にある。
赤マント地蔵の方は、誰を供養したものか、余計わからない。
目立っている割りに、こちらは案内柱もない。
台座には「無縁塔」の彫り込みと、大正11年5月の建立年月。
簡単な由来や寄付者名も刻んであるが、そこは風化が進んで読みにくい。
一説によると関東大震災の際、付近の海岸に漂着した身元不明者をここに運んで埋葬したという。
さらに台座に列記されている芸妓組合、二業組合などといった寄付団体名から、病気などで死亡し、引き取り手のいなかった女郎さんたちも含んでいるようだ。
そういえば山口瞳の「血族」には、土地の古老の語った話として、病気になった女郎は閉じ込めて医者にも見せず、
死ぬと近くの谷戸に捨てに行った、という信じがたい一節が出てくる。
当時の遊郭関係者は、その祟りによってすべて絶えてしまったのだと-
それが事実だったかどうか、
仮に事実だったとして
谷戸というのが柏木田からみて東南にあるこの地を指したものだったのか、いずれも判断する根拠がなく、やはり本当のことはわからない。
ネット上には、昭和34年に公園が造成された際、
トラック・・台分の人骨が出たという真偽不明の記述もあった。
調べようとして、止めた。
帽子をとって「こんにちは」と云う。それぐらいしかできない。
どうせすぐに忘れてしまうし、
数世紀後には、我々だって無縁仏になっている。
賑やかな公園なら、海の方へ行けばいい。
いつ行ってもひっそりとお地蔵さんが笑っている、寂しい公園。
ここはこのままでいいだろう。
誰だか知らない人々と、忘れられた石碑が、この谷戸の静けさを保ってくれてる。
そういう気がするからだ。
(2009.06.03/イチロー記)
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コメント
横須賀製鉄所といえば、表側としての立役者、技師のウェルニーと小栗上野介の胸像が臨海公園にありましたが…。
実は数年前に横須賀を訪問した際に行ってみたのですが、あまりの変貌ぶりに愕然としました。
唯一懐かしかったのは、戦艦長門や高雄型重巡の記念碑がまだ残されてたことです。
ただちょっと気になったのは、公園の隅に横一列に並べてしまったのは、やはり過去の遺物が残されてしまったという印象を受けました。
投稿: ノンノン | 2009年6月11日 (木) 23時33分
こんばんは、ノンノンさん(・∀・)!。
コメントありがとうございます。
ちょっと暗い?(ノ_-。)記事なんでコメントないな、きっと・・と思ってたところです。
この公園好きなんですよ、富士見町らしくって。
ヴェルニー公園(元臨海公園)ですが、キレイになりましたね。
モチロン、こちらの公園とは比べるべくもありませんけど(苦笑)。
ヴェルニー君と小栗君はともかく、軍艦碑は気付きませんでした。
「山城」は確か横須賀で作られ、レイテ沖で轟沈・・・これ「レイテ戦記」で読みました。
「長門」のほうは呉海軍工廠でしたが終戦時は横須賀にいて捕獲され、
ビキニ環礁の水爆実験で標的になった。頑丈で4日後まで浮いていた、とか。
米軍が使用している港のまん前の公園に、
帝国海軍の碑があるのもどうかと思いますが、
三笠公園の東郷さん共々、なに考えてんだろな~と思います。
「平和記念碑」くらい行政で作れよと思います。
まあ裏面史は日の目を見ないのが、裏のゆえんでしょうか。
昭和20年、横須賀への米軍上陸時に当時の警察署長が各遊郭の女性達を集めて
涙ながらに、”挺身隊”になってくれ、という趣旨の演説をぶったそうです。
彼女達は2つ返事でYESと云ったらしい。
こういう話を聞くと、表の歴史はきれいごとという感がします。
投稿: イチロー | 2009年6月12日 (金) 02時21分
富士見町の公園、興味深いですね~。
実は佐野公園(現:宇東川公園)も謎だらけでした。
たしか敷地の中央に段差があり、全体的にいびつな土地でした。
なによりも、三崎街道へつながる不自然に広い道が印象的です。
あの辺りは、戦前は軍に接収されていたので、詳しいことは分からずじまいになったようです。
当時を知る人も少なくなった今、時間だけが流れてゆきます。
投稿: ノンノン | 2009年6月12日 (金) 21時56分
ノンノンさん( ^ω^ )。
そういえば、佐野には宇東川公園ありました、八幡神社の下でしたね。
あそこも谷戸の懐といった場所で、時々傍を通ります。
中央の段差には気付きませんでしたが、
そういえばトイレが公園の真ん中寄りにあって、奇異な感じでした。
男子用など周りから丸見えで・・・いや失礼、あれ絶対ヘンです。
また仰る様に、三崎街道に直角に交わる道が広いのは前々から不思議でしたが、
やはり、軍の関係だったんですか、納得。
しかし富士見町・佐野近辺は公園まで異界っぽいというか、
適当にタイムスリップしてるみたいで、
ホント興味深いです(笑)。
投稿: イチロー | 2009年6月13日 (土) 01時41分